札幌を拠点に活動する「エゾシカ旅行社」は、サイクリングや登山、野鳥撮影など“目的特化型”のニッチな旅をコーディネートするユニークな旅行会社。
さらに、街歩きツアー「闊歩札幌」など地域密着型の企画も手がけ、注目を集めています。
立ち上げたのは、旅行業界出身の中根宏樹さんと、ライターとしても活動する萌さんご夫婦。
実はこの会社、コロナ禍と双子の出産が重なるという激動のタイミングで誕生したそうです。
観光業が打撃を受ける中、なぜ起業を決意したのか?
育児と両立しながら、どのようにビジネスを形にしていったのか?
“好き”を軸に小さく始めて、確実に前に進むおふたりのリアルな挑戦を伺いました。
(取材日:2025年5月/インタビュー:濱内勇一、原くみこ/文:原くみこ)
代表取締役 中根 宏樹(なかねひろき)
1986年愛知県生まれ。 琉球大学観光科学科卒業後、北海道大学大学院国際広報メディア観光学院観光創造専攻修了、修士(観光学)。 特定非営利活動法人北海道オートキャンプ協会常務理事。着地型旅行会社等を経て、2020年4月株式会社エゾシカ旅行社を創業。取締役 中根 萌(なかねもえ)
1987年北海道生まれ。 北海道大学文学部卒業後、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院観光創造専攻修了、修士(観光学)。 2016年よりフリーランスライター。企業や飲食店への取材、各種パンフレット制作など、観光分野に限らずジャンルレスに活動。
観光好き夫婦が起業を決めるまで
原:まずは、お二人がどのような経緯で起業に至ったのか教えてください。
中根(宏樹):もともと僕は大学・大学院で観光を専攻し、その後、小規模の旅行会社や異業種などで社会人経験を積んできました。最初は「旅行会社で5年ほど勤めた後、もう旅行の仕事はいいかな…」と思っていた時期もあって、一度離れたんです。形のないサービスを販売することに疲れたというか。そこで木材の輸入販売の会社に転職して、まったく違う業界で働き始めました。
でも、やっぱりどこか心の奥では「いつかは独立したい」という思いがあったんですよね。そんな矢先に、うちで双子が生まれまして、これが大きな転機でした。妻が妊娠・出産して、子どもが4人になるわけで、今後の働き方をどうするか。本気で考えたときに「それなら自分でやろう」と決意を固めました。
中根(萌):私は夫と同じ観光系の大学院を卒業後、2016年からライターとして活動しています。旅行会社での勤務経験はありませんでした。
双子が生まれた直後は、やっぱり大変でした。その時期は、コロナ禍で観光業全体が停滞しているタイミングとも重なりました。起業したばかりの私たちにとっては、普段は忙しい業界の皆さんとじっくりお話しさせていただく貴重な機会にもなりました。
法人設立と旅行業のハードル
原:それをひとつの機会ととらえて、コロナ禍の真っ只中であえて起業を選ばれたんですね。最初から法人として立ち上げたと伺いましたが、旅行業というのは、やはり法人でないと難しい業種なのでしょうか?
中根(宏樹):旅行業を始めるには登録が必要ですが、個人事業でもできないことはないんです。ただ、取り扱う旅行の範囲によって、“営業保証金”や定められた金額の資産を持っていることが条件になっているので、他の業種よりも個人で始めるハードルは高いかもしれません。
僕たちは当初からオーダーメイドのツアー手配を国内外で扱おうと考えていたので、個人事業主よりも法人にしておいたほうが、公募事業や海外エージェントからの信頼度も上がるんですよね。
それに、家族が多いので健康保険などの制度面でも法人のほうがメリットが大きかったんです。一度個人事業主をはさんでしまうと、また手続きが増えてしまうし…。
そういった理由で最初から法人化しました。旅行業登録のために必要な保証金に関しては、ライター仕事の収入を合算しつつ、何とかクリアしてスタートを切りました。
社会保険の面でも法人でスタートしたほうがメリットが大きかったんだね。
小さな会社だからこそできる、“こだわりの旅”づくり
原:エゾシカ旅行社さんといえば、サイクリングや写真撮影など目的特化型の旅行=SIT(Special Interest Tour)が強みですよね。大手にはない“オーダーメイド感”や“面倒な手配”を引き受ける、という点が差別化になっているように感じます。なぜこの路線を選んだのですか?
中根(萌):旅行業界では、大手のパッケージツアーがやはり王道です。でもそれだと「一度にバス何台」という送客力が求められますし、小規模事業者が勝負するには難しい面が多いんです。
その反面、SITは「サイクリングだけが目的」「絶滅危惧種の鳥を写真に撮りたい」「チームで山登りやトレッキングに特化したい」というように、明確な目的やテーマをもったお客さまが対象になります。テーマがハッキリしているぶん、お客さまともしっかりコミュニケーションを取りやすいし、さらに滞在日数が長かったり、こだわりが強い分、少し高単価になりやすいという特徴もあります。
私たちは、そういった“ニッチだけど確実にある需要”に応えることで、旅行会社としての差別化を図ることにしました。大手が扱いにくいオーダーメイドの手配であれば、小さな事業者こそ強みを発揮できるんです。
海外からの問い合わせが急増した“きっかけ”
原: コロナ禍でインバウンドが落ち込む中、海外のお客さまをどうやって獲得していったのでしょうか?
中根(宏樹): 実は起業して間もない頃、世界的な旅行イベント「ATWS(アドベンチャートラベル ワールドサミット)」が北海道で開催されることになりまして。アドベンチャートラベルやアウトドア系の海外エージェントが一堂に会するこのイベントは、私たちのような小規模事業者にとっては絶好のチャンスでした。
コロナの影響で一時は開催が延期されましたが、最終的には2023年にリアル開催が実現しました。私たちはこのイベントで日帰りツアーの一部を担当したり、自治体のプロモーション資料にも事業者として名前を掲載してもらい、認知度を一気に高めることができました。
さらに札幌市が実施する招聘事業など、海外エージェント向けの情報提供の場に継続的に関わることで、直接の問い合わせにつながるケースも増えてきています。出展や紹介リストへの掲載を通じて、アジアや欧米圏をはじめ、さまざまな国からの反応を実感しています。
原: 積極的に売り込みをかけるというよりは、タイミングやネットワークを活かして、自然な広がりを生んでいる印象ですね。
中根(萌): そうですね。ありがたいことにご紹介や口コミが多くて。展示会などで名前を挙げてもらうことで、「こんな会社があるんだ」と海外のエージェントが発見してくださるんです。少人数体制ではありますが、こうした機会がダイレクトに仕事に結びつくのは、私たちのような小さな旅行社ならではの強みかもしれません。
街歩きガイドツアーをもっと身近に
原:さらに“闊歩札幌”という札幌市内の街歩きツアーも運営されていると伺いました。海外の方が利用されているイメージですが、どのような内容なんでしょう?
中根(萌):「闊歩札幌」は、一言でいうと“街中を散歩しながら札幌の歴史や文化を体感する”ガイドツアーです。時計台やテレビ塔、道庁(赤レンガ庁舎)など札幌を象徴するスポットを巡りながら、「どんな歴史でこの街並みができたのか」「意外と知られていない観光スポットがある」ことを楽しく学べます。
ヨーロッパなどの海外都市を旅するとき、街歩きガイドってわりと一般的なんですよね。でも札幌ではまだまだ認知されていませんでした。コロナ前はインバウンド需要を狙ってスタートしたわけではなく、「市民の皆さんにもぜひ参加してほしい」と思って立ち上げたんですけど、いざ蓋を開けると海外の方が9割を占めるようになりました。
最近は、“札幌在住だけど改めて街を知りたい”“帰省の際に家族で体験したい”という方々からのお問い合わせが少しずつ増えています。ふるさと納税の返礼品としても取り扱っていただいて、道外に住んでいる方が帰省をかねて参加するケースも出てきましたね。
夫婦経営ならではの強みと、ちょっとした衝突
原:ご夫婦で同じ仕事をしていると、すぐケンカになってしまいそう…と想像してしまうのですが(笑)そのあたりはどうですか?
中根(宏樹):仕事上でケンカはほとんどないですね。得意分野が違うので、そこはうまく分業できています。僕はどちらかというと経理や事務作業、ウェブサイトの制作・管理など裏方が得意。一方、妻はライターであり、情報発信や対外コミュニケーションが得意なので、媒体とのやりとりや広報的な動きはおまかせ、という感じですね。
それに、ガイド先や取引先の方との相性もあるんですよ。しっかり会話を盛り上げたいお客さまのときは萌が対応して、ちょっと静かに丁寧に進めたいときは僕、みたいに「テニスのダブルス」感覚でフォローし合っています。
中根(萌):とはいえ、子育てや家事の分担はそのときどきで変わるから、そこはしょっちゅう擦り合わせが必要ですね。なんといっても子どもが4人いて、しかも双子を含めて年齢が近いのでバタバタなんです。どっちが保育園へ送るか、どっちが夕飯を担当するか、という話し合いをその都度やります。
家に6人いますから、常ににぎやかで。でもその分「仕事を休みたいときは休み、出かけたいときは出かける」みたいなフレキシビリティがあるのは、起業の強みだと思っています。例えば出張に家族を連れていけば、それは仕事でもあり家族旅行でもある。街歩きツアーの下見に子どもを連れて行くことだって、私たちならではの面白さだと思っています。
“ちょうどいい規模”が叶える、家族にもやさしい経営
原:今後の目標やビジョンを教えてください。大きな会社にしていくイメージはあるのでしょうか?
中根(宏樹):正直に言うと、会社を大きくすることはあまり考えていないんです。よく「社員は何人まで増やすんですか?」とか聞かれるんですが、今のところ“家族経営+α”くらいで、ちょうどいい規模感を保ちたいと思っています。
というのも、旅行業って5年ごとに更新手続きがあって、資産要件などが問われる仕組みなんですね。大規模化して借り入れが増えると、更新で苦労するケースもあるし、自分たちのやりたいことを制限せざるを得ない事態も想定されるんです。だったら、今の規模でもしっかりと黒字を作りながら、満足度の高い旅行商品を提供するほうが“自分たちらしい”かなと。
中根(萌):あとは、私たちが“幸せ”と感じる基準が「やりがいを感じつつ、家族も大事にできる働き方」なんですよね。それを守るためには、あまり大規模になりすぎないほうがいいなと思っています。
もちろん「闊歩札幌」をはじめとする街歩きツアーや、海外のお客さま向けの企画はもっと広げたいです。そのためにはフリーランスのガイドさんと連携したり、他社さんとの業務提携で手配をスムーズにしたり、横のネットワークを強化しながら事業の幅を拡大していくイメージですね。
インド市場や少人数ツアー、未開拓の“ニッチ”に挑む
原:オーダーメイドで個々のニーズを満たす旅行というのは、一度ハマるとリピート率も高そうです。今後はどんな領域に注力していきたいですか?
中根(萌): 最近は、特にインド市場に可能性を感じています。というのも、インドからの訪日観光客はまだ全体の1%ほどと少なく、北海道の情報となるとさらに限られています。
でも、人口は増えていますし、現地のインド映画で札幌がロケ地に選ばれたという話題もあり、注目度が徐々に高まっているんです。
ただインドの方々は、食事や宗教的な制限があったり、コミュニケーションスタイルが日本とは違ったりと、大手旅行会社にとっては少しハードルが高い市場でもあります。だからこそ、柔軟に対応できるわたしたちのような小さな旅行社には、入り込む余地があると感じています。
そのタイミングに、うちはぜひ“受け皿”として存在感を出していきたいなと。
中根(宏樹):あとは、海外からの富裕層だけじゃなくて、町内会のバス旅行や趣味の集まりなど、国内のこだわり層にももっと対応していきたいですね。たとえば「鳥を撮影したい」「特定の山に登りたい」など、テーマ性のある旅には強みがあるので、大人4〜5人単位の少人数だけど“ちょっとこだわった旅”がしたい、という場合に僕たちのサービスが喜ばれることが多いんです。
中根(萌): 市場が小さいからやらない、ではなくて、市場が小さいからこそ存在感を出せる。それが私たちのスタンスです。大手が手を出しにくい場所にこそ、私たちらしい価値を届けていきたいですね。
自分らしい“飛び方”を準備しよう
原:旅行業に限らず、これから起業を考える方も多いと思います。お二人なら、どんなアドバイスをしますか?
中根(宏樹):僕たちがよく言うのは、「飛ぶべき時に飛ぶ。ただし準備は必要」ということですね。起業ってバンジージャンプみたいなもので、どうしても「飛んだ後」にしか見えない世界がある。でも、まったく装備なしで飛ぶと怪我をするかもしれない。
だからこそ、最低限の安全策やネットワーク作り、事業計画、経営資金の確保はしっかり準備しておく。そのうえで「今だ!」というタイミングが来たら思い切ってジャンプすること。周りから見れば無謀に見えても、自分が「ここが勝負どころだ」と腹をくくっていれば、なんとかなると思います。
中根(萌):私たちの場合は双子の出産が大きなきっかけになりましたし、コロナ禍で観光業がストップしているタイミングも「準備するにはちょうどいい」と捉えました。どんなピンチにも「逆に今だからこそ得られるメリット」が絶対あるものです。そこにどれだけ気づけるかが分かれ道かなと思います。
“巻き込み力”がチームを作る
原:とはいえ、実際に起業すると“孤独”を感じることも少なくないですよね。とくにサービス業は人的ネットワークが重要だと思いますが、その点で大事にしていることはありますか?
中根(萌):私は“助けてもらう力”が大事だと思っています。例えば、子育てをしているとたくさんの人に助けられます。家族友人はもちろん、保育園の先生や近所の方もサポートしてくれて、本当に感謝の日々です。仕事でも、困ったときは素直に助けを求められるようにしたいと思っています。もちろん私も誰かが困っていたら助けたい。
あとは“巻き込み力”でしょうか。誰かの熱量や楽しい気持ちが伝染していくことで、素敵なチームが出来上がっていくように感じます。それが人的ネットワークの核になるように思います。
中根(宏樹):旅行業は“現場”を知っているかどうかがとても大事です。ホテルやバス会社に断られても、別ルートで探せば部屋や車両が確保できたりする。「この人は誠意がある、応援したい」と思う人の周りには自然と人が集まります。僕たちがコロナ禍という逆境で起業できたのも、業界の方々が「時間あるし協力しよう」と思ってくださったおかげです。
自分のペースで、“自分らしい事業”を
原:本日はたくさんのお話をありがとうございます。最後に、この記事を読んでいる方へメッセージをお願いします。
中根(萌):起業って「24時間仕事してます!」みたいなイメージが強いかもしれませんが、私たちのように育児と仕事を行ったり来たりしながら、意外とゆるっと続けていくスタイルもありだと思います。もちろん大変なこともあるけど、自分でコントロールして、ライフステージに合わせて調整できるのは起業の醍醐味です。
中根(宏樹):北海道や札幌はまだまだ伸びしろがたくさんある地域だと感じます。大自然の魅力もあれば、街の楽しさもある。僕たちは「闊歩札幌」という街歩きツアーや、ニッチなオーダーメイド旅行を通じて、より多様な旅の選択肢を作りたい。
それと同じように、「自分がこうやりたい」と思うビジネスを小さい規模からでも始めてみると、意外なかたちでチャンスが巡ってくるかもしれません。
【あとがき】
札幌市を拠点に新しいタイプの旅行会社を経営する中根さんご夫妻は、「大きくしなくていい。自分たちがやりたいことを、自分たちのペースで続けていく」という経営スタイルを大切にしていました。
ニッチな市場に特化して生まれる価値、夫婦だからこそ実現できる柔軟な働き方、そしてコロナ禍の逆境すら逆手に取った行動力には、起業をめざす誰もが学ぶところがあるはずです。
「起業は、飛ばなきゃわからない」とは中根さんの言葉。飛ぶ前に必要なことは万全に準備し、それでもいざチャンスが来たら「迷わず飛ぶ」。そんな両軸のバランス感覚こそが、ビジネスをスタートするうえで大事なのではないでしょうか。
起業には常にリスクがつきまといます。しかし、それを超えた先には「自分らしい働き方」「社会に喜ばれる価値」が待っている。もしあなたが今、起業を考えているなら、ぜひその“飛ぶタイミング”を見逃さず、思い切ってチャレンジしてみてください。
北海道発の小さな旅行会社が、家族とともに笑顔で走り続ける姿は、きっと多くの人に勇気を与えてくれるはずです。
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